感染症対策の名の下の「一億総マスク社会」に物申す〜思春期だった私が三十数年を経た今の世に問いかける〜

先日、実家の物置きで探し物をしていたら、私が子ども時代に学校で描いた絵が何枚も出てきた。
そういえば、あの’中学時代に描いた白黒のおどろおどろしい絵画’はどこにあるのだろう?と探したが見当たらない。そうだ、確かあれは親が記念にといって写真に撮ってくれてたはずだ、と思い出した。書庫のアルバムを片っ端からページを繰っていたら、かの’おどろおどろしい絵画’のスナップ写真が見つかり、さっそく当記事のアイキャッチ画像に設定した。

中学時代に描いたポスター画に込めた想い

これはかつて、中学1年の私が美術の時間に描いたポスターだ。
確かテーマは指定されておらず、各自めいめいに決めるものだった。
私は、真っ先に脳内に浮かんだイメージを一気に絵にした。

当時13歳の私は画一的な校則に対して強烈に違和感と反発心を抱いていた。「統一された美しさ」「秩序の大切さ」を大義名分に、ルールの根拠自体が不明なものが多く、どう考えても生徒一人一人の個性を押し潰すことが目的としか思えない校則のあり方に、窮屈で息苦しくて仕方なく、反抗したい衝動を抑えきれなかったのだ。

1980年代半ばの当時、ようやく音楽CD(今や廃れかかっている)が出回り始めた頃だった。まだこの世にインターネットもスマホも存在しておらず、パソコンはおろか、ワープロすら普及していなかった時代だ。’活字’は本や新聞、雑誌といった公のメディア情報をこちら大衆側がもっぱら「受け取る媒体」であることに限定されていた(新聞や雑誌などのメディアにこちらから投書し採用され掲載される以外は)。現代の多くの人にとってすっかり馴染んでいるSNSなどといった自分からの発信媒体として日常的に使うことは皆無に等しかった。なので、そういった「お上から伝達されるメディア」を象徴する’活字’を自分の手で生み出せること自体に興奮していた。

私は初めての本格的なポスター制作で、テーマのフレーズ「管理される子供たち」一文字ずつを活字体にすることに夢中になっていた。新聞から同じ文字を切り抜いてきたものを見ながら忠実に模倣する。フォントって面白い!明朝体の造りってこうなってるんだ!と新鮮で楽しくてたまらなかった。
しかし、こんなテーマをしかもモノトーン一点張りで表現している変わり者はおそらくクラス内でも私くらいだったろうと思われる。

ある日、この美術の時間に各自ポスターを描いていた時、私は美術担当の教師に別室に呼び出された。

その美術の先生が何を言ってきたのか詳細な記憶は定かではないが、要は「こんな学校に楯突くような題材をテーマにするなど言語道断だ」という旨の’忠告’だったと思う。その時先生が醸し出す威圧感たるや凄まじく、私は後頭部を鈍器で激しく殴られたような感覚と同時に恐怖のあまり身体中の血の気が引き、ノドから心臓が飛び出るくらいバクバク動悸を打ったのを鮮明に覚えている。

おそらく先生は私を心理的にコントロールすることで、このテーマを断念させようとしたのだろう。しかし私は先生のその’忠告’に敢えて従わずそのまま描き続けた。「たとえ先生やクラスメートに白い目で見られようと奇異に思われようと構わん。わたしゃあ、何が何でもこのポスターを描ききらんと気が済まんのじゃ!」という情熱が内から溢れて止まらず、恐怖をはるかに凌駕していたのである。

今思えば、先生も内心相当驚愕、狼狽していたのかも知れない。普段は大人しく目立たない女子生徒がいきなりこんな反抗的で挑戦的で、学校側にとって不都合な内容の絵面を差し出してきたら、かなりギョッとして警戒するのも無理はないだろう。
普段しばしば私にちょっかいを出してくる男子生徒たちもこの絵に関してはダンマリだった。先生もクラスメートも戸惑ってたのかドン引いてたのか分からないが、いずれにせよ私自身にとってはこのポスターを仕上げることによって自己表現欲が満たされて、この上ない達成感と充実感を味わえたことに間違いはない。

私は、美術(に限らず芸術)の本質の一つは常識を疑うことであり常識を超えることにあると思っている。
しも私が今の時代に中1だったら、生徒たちの顔にマスクを描き込むのは間違いないであろう。’令和リニューアルバージョン’として、新たにマスク追加した作品を作るのも興味深い。この’昭和オリジナルバージョン’は、生徒たちのフォルムが微妙なぬいぐるみ人形ぽくてちょっと間抜けなので、そのあたりも改良したい。しかし、男子生徒の肩幅を怒り肩→撫で肩に修正した跡がくっきり残っているが、修正をした意図が何であったのか全くもって謎である(笑)。

このポスターが意図することから、そして今の世の「マスク」をめぐる違和感から明確になった、私の根幹にある価値観

そもそもこのポスター作品をなぜ今注目したのか。それは人生折り返し地点を過ぎたたった今、本当に私自身が望むことをやって生きていこうと決めたからだと思う。自分の核にある「生きる原動力」「価値観」「どうしてもこだわらずには居られないポイント」を明確に洗い出し言語化している最中に、自然とこのポスターの記憶が蘇ったのだ。

私のコアにある価値観とは、「人ひとりひとりの内に埋もれている/(無意識のうちに)抑圧している’個性’(=その人ならではの持ち味、ユニークさ、魅力)を何よりも尊重すること」である。
さらにいうと、私の残りの人生で成し遂げたいのは「この’個性’を照らし出し洗い出し、のびのび発揮できるよう後押しすること」なのだ。

そして、この言語化に至ったきっかけは「2年以上にわたる感染症騒動を通じて、私自身が感じてやまなかった違和感と閉塞感」にある。ようやくここ最近になって、世界各国でこの感染症対策を緩和していく傾向が出はじめ「マスク義務化の撤廃」の方向に進んでいる中、われらが日本は相変わらず’感染症予防対策’の名の下に「マスク装着がデフォルトであり当然の公共マナーである」といった同調圧力が根強く幅を効かせている有り様だ。

道端でみかける登下校中の小中学生、高校生、それから大人たちも10人中9人以上マスクをしている。屋内外問わず閑散とした場所でもマスク。自転車や自動車を’一人で’運転している時もマスク。要は人目に触れる場所だと所構わずマスク。感染症予防という名目でルールが決まっているから、そしておそらく彼らも感染症予防のために、そしてマスクをしないことで他の人から咎められないようにするため、余計な揉め事を起こさないため、と我慢して従っているのだろう。そしてそれが当然となりつつあるのか、マスクをすることで自分の口元をさらさない=自分の表情を周囲に見られないことに対する一種の安心感や安堵感(隠しておけるプライベートゾーンが増すことによる)のようなものも感じているのか?

私には、自分の本当の気持ちよりも事なかれ主義を優先し、自ら進んで自らの口、意思を封じて思考停止に陥り、自分という個の尊厳をないがしろにしているように見えて仕方ない。まさに「一億総マスク社会」の今の日本、このポスターに描かれた画一的でゾンビ化した生徒たちの姿と重なる。

この絵は現在の「一億総マスク社会」の日本をそっくり映し出している

思春期時代に描いたこの作品を回顧することを通じ、そして今の世に生きる自分の本音を見つめることを通じ、私は「生身の人間ひとりひとりが持つ個性」をないがしろにするような社会の仕組みや’常識’に対して、敏感に反応するタイプの人間なのだ、ということがよく分かった。
おそらくこのことが気にならない人にとっては「この人、何をこんなに躍起になって訴えてるんだ?校則だろうがマスク着用義務だろうが決められたルールに従う方が楽だし安心安全なのに」という感覚なのかも知れない。

確かにマスクをすること自体が心地よい、と心底感じられるのならそれはそれでアリだと思うし、私はそういう考えの人に対してまで無理に自分のポリシーを押し付けるつもりは毛頭ない。進んでマスク装着する選択をする自由意志も尊重されなければならないと考えている。(そもそもこのたびの感染症に関してどういう捉え方をし、意見を持つかはそれぞれ個々に考え方があってしかるべきだ。)

けれど、もしも本音ではマスクをしたくない・する意味や意義がさほど感じられないと思っているのに、その本音を無視して、周りの雰囲気や一般的な「常識」に従い、何となく流されて装着しているのであれば、それは自分自身にたいする欺きであり、むしろ自ら進んで一方向への同調圧力を強め閉塞感に満ちた社会を形成する一員になっているのではないか。かけがえのない自分という個人の尊厳をないがしろにした生き方になるのではないか?果たしてそれでいいのか。
周りがどうあろうとあくまで自分はどうしたいのか、どうするのか。個人として’自分発’で判断し行動に移していかないことには、むしろ安心安全と真逆の方向に巻き込まれるリスクもあるのではないか。

世の中の空気がこうだから、と不満の元を外部のせいにし続ける限り、世界は変わらない。
「自由」とは外部から与えられるものでは決してない。リスクをとることも含めて自らが勇気を持って主体的に選択・行動していくことで初めて獲得できるものなのだ。

私の本音はこうだ

私の本音はこうだ。
「私は症状のない元気な時にはマスクはする必要がないと考えているし、実際に仕事中や症状のある時を除いてプライベートな活動場面では、屋内外関わらず敢えてマスクをしていない。私は、自分の素顔をさらして外界に対峙したい。そして、マスクに覆われてしまったみんなの口元を、素顔を、そして表情を、そのままありのままちゃんと見たい。笑顔はもちろんそれだけじゃなくて、拗ねたりしょげたり泣いたり怒ったり、すましたり、無表情だったり。生命を持つ存在の人間として当然で自然である’顔’を口元含めてちゃんと出して、お互いに表情を見せ合って関わり合って残りの人生を生きていきたい。先の見えない今の時代、この私のとった選択が大多数の向かう方向と異なっていようと、どのような展開・結果になろうとも私は自分の意思に忠実に生きる」

このポスターを描いた件。思春期に目覚め始めた自我の勢いゆえ、実社会で揉まれたことのない無鉄砲な若さゆえだったのかも知れない。しかし三十数年を経た今振り返るに、あの時私の取った選択と行動は決して間違っていなかったと確信している。

実は当時この作品、作った後しばらくしてものすごく面映く恥ずかしくなってしまって(なんという生意気な!という赤面状態。いわゆる厨二病的なものとして捉えていた気がする)、自分の中の黒歴史(絵のまんま白黒歴史?)として記憶の奥底にずっと封印していた。

しかし、いやはやなんのその、この白黒ポスター『管理される子供たち』は、紛れもなく私にとって極めて根本的な核心をなす価値観を見事に体現してるじゃないか。あの時の私よ、あっぱれ厨二病上等!と見直し讃えている。

今年の1月半ばから、プライベートで症状がない時は基本素顔で外出している。自分の身体に関わることは自己決定する。しかし、素顔で外出することがこれほどまでにマイナーでスリリングな事柄になろうとは、2年少し前までは想像もしなかった。

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