「価値」をどう定義する?無意識にインストールされた思考放棄の価値観に気づいた瞬間〜2019 夏の参院選を前に〜

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社会のあり方や政治。これは自分の生活インフラのあり方を決定する、本来ごく身近なものだ。
にもかかわらず、こと日本では社会の仕組みや政治を語ることをタブーとし、思考停止の習慣が根付いていて、実感が薄く遠い存在になっている。

私たちの世代(第二次ベビーブーム1970年代始め生まれ、バブル崩壊直後でロスジェネ黎明期)もそうだ。
学生時代に、社会や政治に対して反骨精神を示す学生運動を、大部分の学生はどこか冷めた目で見ていた。社会や政治を変えるなどという事に対する無関心さ、一種軽蔑するような空気があった。
表面的には物質的にそこそこ恵まれた世代でもあり、社会を変えたいという逼迫した動機も乏しかったこともあろう。
この空気感は、共通の世代感覚として私自身の中にもある。

いくら社会の不条理さを指摘し楯突くようなことをしても、それが出来るのはあくまで学生という気ままに過ごせる時期だけだ。
結局は「生き抜いていくため=お金を稼ぐため」に、その不条理な社会の中に順応せざるを得ないという現実。
この現実を前にして、一種の諦めと思考停止でもって対処してきた。

結局は何らかの形でお金を稼いでいかないと生きていけないし、そうすることでもって初めて自立した大人、社会人という「一人前」として認められ、自分自身を認めることができる。

…そう信じてこれまで生きてきた(いる)。

だが、いまだに「自分は本当に自立してるのか?」と問うと確信が持てない。
世の中に本当に役立つ価値を提供し、かつそれに十分見合った対価を得る。
これが私自身できているとは言い難く、まだ途上だ。

「自分にはこれだけ受け取ってしかるべき価値がある」ということを、堂々と自己開示し主張するのが怖いし、そもそもどれだけ受け取っていいのか見積もることすらできないのだ。


でも、これって、自分自身の「価値」が既存の社会のお金のしくみの中にがっちりと組み込まれていた(いる)からじゃないか?

「働かざる者食うべからず」というポピュラーな格言にみられる価値観、お金を稼いで一人前、お金を稼げない人間は価値がない、という価値観は、現状の社会の金融システムに順応するべく社会から思い込まされてきて、また自ら進んで選択した思い込みなのではないか?
これはある意味「思考放棄の価値観」ともいえる。

今回の参院選で、大西つねきさんという候補者の考え方に出会うことで、自分の中の深い部分にある信念が呼び覚まされた感覚があった。
たった今、その理由が腑に落ちた。

自分の価値を臆することなく見積もり、それを堂々と開示できるようになりたい。
自分の価値を認める強さが欲しい。


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