インナーチャイルド。
心理学系の用語で「内なる子ども」と訳される概念だが、最近私は、これは単に現役の子ども世代や要素としての子どもについての問題に限らないのではないか?インナーチャイルドとは「人間の基本的な尊厳に深く関わるテーマ」であり「個人レベルで自分自身を、そして世界を根底から動かしていく原動力」にも深く関わっているのではないか?と考えるようになった。
このような考えに至ったのは、数年前より西洋占星術の月欠損論を学び「欠損を象徴する月は7歳以下の子どもに喩えられる」という内容がひっかかったこと。それからここ直近では、著作家であり陶芸作家であるChihiro Sato-Schuhさんのインナーチャイルドについての発信に注目していることがある。
「インナーチャイルドは、単に子どもだけの問題ではない」と言いたい理由はごく単純で、人間は誰しも赤子としてこの世に生まれてきて、子ども時代を経て大人になるからである。つまり全ての大人は必ず子ども時代を経ているということだ。
今現在の子ども世代のみならず、すでに大人である私たちひとりひとりも、生まれ育った環境で一律にどうとは言い切れないにせよ、子ども時代に多かれ少なかれ社会の歪みの皺寄せを受けてきたことは否めない。つまりは強い表現になるが「私たちは知らず知らずのうちに大人社会から魂に虐待を受けて育ってきた、れっきとした犠牲者であり被害者」なのだ。この事実から目を背けてはならない。
時代が、とか周りの状況がやむを得なかった、とか親もそうせざるを得なかった、など諸々の背景事情はもちろんあるだろう。だがそれを言い訳に自分が辛い目にあったことを無かったことにはできない。なのにそれどころか辛い目に遭わせてきた相手の事情を汲んでどれほど卑怯で残酷な仕打ちも全てを必然として受け容れて許すべき、それこそが究極の癒しであり愛なのだ、という論法でまとめられてきたのがこれまでの大部分のインナーチャイルドセラピーではなかったか?そんなのは自分の気持ちを蔑ろにした誤魔化しでありまやかしであり体のいいファンタジーでしかない。これでは本当の癒しは得られないし今の歪んだ社会を容認し、次の世代に再生産していくことにつながる。
では私たちはインナーチャイルド(内なる子ども)とどう向き合えばいいのか?
自分は紛れもなくあの時傷ついたのだ、辛くて悲しくて惨めで情けなくて寂しい思いをしたのだ、ということをまずは認めるしかない。そして傷つけてきた他者(ここでいう他者とは必ずしも大人とは限らない)に対して、もしもあまりに酷い仕打ちで許そうにも到底許せないのであれば「許せない」という偽らざる自分の本音を最大限に尊重する。
しかしながら、ここで要注意なのが「許せない」とは「許すこと」を前提とした表現であるということだ。また、ここで、思い切って「許せない」→「許さない」に前提そのものを置き換えるのだ。マイルドなバージョンとして「許したくなければ’差し当たり今は’許さないでいる」ハードなバージョンとして「相手が自分を傷つけたという事実は断じて許さない」と決めてしまうのだ。この「許さず拒否する」決断は、若干の勇気が必要だ。だが実際にやってみると高い視点から俯瞰することになり、えっ何これ?ていうくらい拍子抜けに心が軽くなる。これが本当の癒しにつながるんじゃないかと思う。
「被害者や弱者を装って相手に罪悪感を抱かせるな」などという外側の言葉に惑わされてはならない。相手に罪悪感を抱かせるも何も、事実被害を受けたんだから当然じゃないか。それにこの言葉こそこちらに言われなき罪悪感を植え付ける罠だと思う。
「相手は自分の一部を投影している、だから拒否せず丸ごと受け容れることが癒しになる」という筋立てで展開してくるスピリチュアルメソッドも要注意だ。相手を受け容れる前にまず自分を、自分の素直な本音の気持ちをまるごと受け容れることのほうが先決だ。負傷して傷が癒えてないのに傷つけてきた相手のことを受け容れるなんて土台無理だろう。原理はそれと同じだ。
「自分自身を最大限に尊重する」。これをとことんやりきってはじめて、その結果のひとつとして他者を許したり受け入れたりすることも可能になるのである。
Chihiroさんは、このテーマについて貴重な問いを投げかけている。
当該リンクはこちら。
https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2Fchihiro.satoschuh%2Fposts%2Fpfbid05QtQSnAbDetBc1SGetSZCKRmogGjYoqEhLfryYRssvF3LaSFY6ou5fFRrDoNXAVUl&show_text=true&width=500
以下に、こちらChihiroさんの投稿内容で印象に残った部分を抜粋した。
「人が人に暴力をふるうということの根幹には、子どもの時に受けた虐待が関わっている。」
「平和な世の中を作ろうと思ったら、子どもを守るしかない」
「子どもが人間らしく扱われないような社会こそが、犯罪や戦いを生んでいるので、子どもが守られる世の中でなければ、暴力はなくならない」
「悪いことが悪いことだと認められずに罷り通っている世の中。その中で、影に隠れたところで子どもたちが虐待され、それも受け入れなければならない現実だとして黙認されているということ。それこそが解いていかねばならないことだったのだ。世界が本当に平和になるためには」
「これまでの多くのインナーチャイルドのセッションは、結局のところ、深い傷を受けたことを許して受け入れることでバランスを保つというようなものだったと思う」
「親を責めても仕方がないから許して受け入れるということになる」
「現代社会に適応して生きていこうと思ったら、子どもが虐待されるような状況も、それもありだという設定にしておくしかないということは確かにある」
「しかしそれは本当の解決にはならないし、結局のところ虐待が温存し続ける世界を再生産していくことになる」
「結局のところ、世の中がおかしくなってくると、子どもが真っ先に皺寄せを受けて歪んだ扱いを受け、それが当たり前にされていく」
「’自分が被害者であるということを認めたくない’が、それを認めないと同じことを子どもたちにもやらせることにつながる」
「もはや子どもが人間らしく扱われないような世界を認めない」
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追記1:
よくよく考えると、自分の親の世代はちょうど敗戦当時の生まれ。親の親(祖父母)世代になると戦中世代だから、もろに戦争のトラウマを受けている。祖父母の世代は国家レベルで精神的に虐待を受けてたといっていい。そんな祖父母世代に育てられた親世代に引き継がれたトラウマが私の代に降りてきている。致し方ないことなのだろうけれど。親世代や祖父母世代もインナーチャイルドが相当傷ついているんだろう。切ない。
追記2:
あの後考えたり人と話してて気づいたんだけど、そもそもインナーチャイルドって「欲求や親からの愛情で満たされていない傷ついた幼な子」という定義ではあまりに狭すぎるんじゃないか?「チャイルド=子ども」というところから「幼い」「弱い」「大人の庇護やしつけを必要とする未熟で稚拙」な存在、というニュアンスで語られていることが今までの主流ではなかったか?これまでのインナーチャイルドセラピーは「ぐずる駄々っ子を、理性ある大人の側があやしていなして適当なところで切り上げないと、要求がどんどん増えて手がつけられなくなる」といった観点からしか捉えられなかった節があるように思う。
しかし実は、インナーチャイルドってそんな「ちっちぇえ奴・ちっちぇえ枠」に収まり切るものではないのでは?実はもっと広くて深くて、パワーに溢れた宇宙の愛や源みたいなものの水先案内人なのではないだろうか?そういう意味では「手がつけられなくなる」=大人の常識から外れて収拾がつかなくなる、と危惧するのも一理あるかもしれないが。
チャイルドという名前に惑わされる勿れ。本当はすごい力を持っている可能性の塊なのだと。(ひょっとして意図的に)矮小化されていることに気付けよと。子どもという存在をあまりに軽視することで、子ども大人かかわらず人間の本来持つ力を封じ込めていたのか?などと穿った見方だが、そう思う。何の根拠もないスピっぽい戯言の仮説に過ぎないかもしれないが、体感的にそう受け取っている。
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