30年以上ぶりに観たドラマ『十九歳』の織田裕二
ふとしたきっかけで蘇った、私のディープな原点。それは、織田裕二。彼は私の青春の象徴だ。
彼を初めて知ったのが今から32年前、1989年に放映されたNHK土曜ドラマ『十九歳』だった。年明け1月中旬、昭和から平成に元号が変わったばかりの頃。当時私は高校2年だった。
ドラマでは、親離れし自立していく一人の青年の姿が描かれている。主人公・村上大介をひと目見て、一体なんだこの精悍な青年は!と固唾を飲んだ。真っ直ぐで鋭い眼力と、全身からほとばしるナイーブな情念。狡猾さと真摯さが入り混じり、ふとした隙に見せる純朴さ。村上大介は、17歳の私の心のど真ん中を射抜いた。当時21歳の織田裕二はまだ駆け出しで無名だったけど、この人タダモノじゃない。これから間違いなく大物になる!と直感した。
ストーリーについてはここでは詳細には語らないが、主人公の大介を取り巻く大人たちの役が、三浦友和、西郷輝彦、橋爪功と渋い面々だ。ドラマ全体に昭和の男女格差感が漂っていて、ファッションやヘアスタイルも懐かしい。乗用車は全て角ばって平べったい。今の時代なら情報拡散手段はスマホ一台で一発だが、ドラマの中ではでっかい受話器の電話、カメラはポラロイドでコピー機の音が大きい。アナログ感満載な当時のテクノロジーが愛おしい。
テレビ自体がまだブラウン管だった時代。1話目の動画配信は、ブラウン管ならではのマットな画面のざらつき感や、TVアンテナの受信電波が何かに遮断されるのか、時折画面が荒れて砂嵐状になるのがむしろ新鮮な感じすらする。
贔屓目かもしれないけど、他の同年代の脇役を見てると、皆話し方や立ち振る舞いが「いわゆる昭和っぽい」のに対して、織田裕二からは不思議とそれが感じられないのだ。際立つ存在感が時を超えて、令和になった今見ても鮮烈に胸に届く。なんだ彼のこの時代をも突き破るふてぶてしさは!(とはいえ彼のヘアスタイルはじめ襟を立てたポロシャツとか、トレーナーのロゴデザインとかいかにも昭和〜平成っぽい感じはするが)
●こちらが第1話。(なぜかリンクの埋め込みが出来なかったため、こちらのURLをコピペして下さい)
https://youtu.be/yTbwzoqIm08
●そしてこちらが最終回の第3話。
大介が父親と対峙し思いの丈をぶちまけるシーンが圧巻で見どころだ。
もし、今の時代の私が大介に向かって「あなたは今から30年以上昔の時代で演じてるけど、まったく昭和や平成初期っぽさを感じさせないパワーがありますね」…などと伝えようものなら彼はきっと、握りこぶしでふすまをぶち破り大きな眼で睨みを効かせて「ああ?昭和だろうが何だろうが、ンなもんカンケーねぇ!俺ぁ俺なんだよ!」と激昂するであろう。
『十九歳』は、織田裕二にとって初のテレビドラマの主演作品だ。この作品と前後して映画『湘南爆走族』や民放ドラマ『ママハハ・ブギ』はじめ、かの超有名な『東京ラブストーリー』『振り返れば奴がいる』そして『踊る大捜査線』で黄金期を迎え…民放月9ドラマで華々しく活躍し、彼はあっという間にメジャーな存在になっていった。
これら民放中心に放映されたメジャーなドラマでの彼も勿論際立って素晴らしい。しかしやっぱり私は、この超初期の地味でマイナーなNHKドラマ『十九歳』が一番のお気に入りだ。このドラマで、青くて尖っていながらもこんな初期から既に突出した才能を炸裂させている彼が、一番好きだ。(その後の彼の出演作は恋愛ものが多く、相手役の女優にジェラシーを感じたというのも正直なくはないが、あまり見る気が起きなかった。しかし『十九歳』は恋愛を主眼に置いておらず、あくまで個人としての生き方にフォーカスが定められていたことが潔かった。そして、ドラマに出てくる様々な立場の男たちの生きざまや人間模様が滋味深く、硬派な仕上がりになっていたのもとても良かった。)
私にとっての織田裕二とは 〜西洋占星術的・心理学的観点から〜
自分にとって、ここまで琴線に響いた俳優ってそうそういない。なぜ私がここまで織田裕二に惹かれたのか。西洋占星術のモチーフである「星」を用いて考察してみた。
私の眼には彼は一見 ’生命力、バイタリティ、自己実現’ の塊、すなわち「太陽」として映った。しかしよくよく考えてみると、むしろ彼は私の中の「火星」すなわち ‘自己主張、戦う力、NO という力’ を覚醒させている事に気づいたのだ。織田裕二は笑っている時よりも、怒っている時の方が明らかに輝いている。彼の怒る姿は、確実に観る者の心を揺さぶるのだ。ここまで「怒りの表現でもって人を魅了する」俳優って稀少なのではないだろうか。
彼により私の中の火星が目覚め、火星が太陽と連携し、さらにはプラス冥王星(破壊と再生)および天王星(ちゃぶ台返し=変革)を刺激している。そんな実感がする。彼はまさに私の中の男性性(心理学用語でいうところの’アニマ’)、もっというと若い男性=青年なのだ。インナーチャイルドならぬ’インナー青年’という表現がしっくりくる。
私の中に住み着いたインナー青年・織田裕二が「お前自身の命の炎を思いっきり燃やせ。怖がってないで自分を押し出せ。なんなら俺が火種になってやる」と囁いてくる。それに対して表層の私は「キャアアァ〜、怖い!けれど勇気出して火種と溶け合いたい…ドキドキ!♡…よし、この際溶け合ってしまおうじゃないか」みたいな応答をすることで、これまで幾度か人生の土壇場を乗り切ったり、勇気を振り絞って大胆な行動に踏み切った経験がある。
私にとって織田裕二とはまさに「生ける火種、尽きることのない火種」であり「時に怖じ気づく私を挑発してくる火種」なのだ。もっと端的に言うと「エロスの源泉」なのだ。
そして……、私が初めて織田裕二に出逢って衝撃を受けた理由は、ただ単に彼自身の魅力だけではなかった。私が思春期の頃に密かに想いを寄せていた人(ここではA君と呼ぶ)と、ルックスとキャラクター両方の印象がかなり重なって見えたからである。初めて私が彼をひと目見た瞬間、反射的にA君の面影が脳裏をよぎり、胸が高鳴ったのを今でも鮮やかに覚えている。
A君は、喩えると’裏番長’的な雰囲気が漂う独特な存在だった。一筋縄ではいかない狡猾さを湛えていて、目力が強く有無を言わさず周囲を圧倒する凄みがあった。目立とうとしなくても自然と目立ってしまう、そんな存在だった。しかし一方で、時に意外なほど抜けていたりごく普通に穏やかで優しい側面もあった。私は、そんなA君に対して強烈な嫌悪感と警戒心が入り混じった感情を持つと同時に、無性に気になり心惹かれていたのだ(いわゆるギャップ萌え?)。だが実際のところ、A君との間で個人的で親密な関わりもないまま、こちら側の勝手な妄想が入り混じった片想いに終わり、私の思春期はあえなく幕を閉じたのだった。
しかしながら、30年以上経った今日に至るまで、私の中でA君の存在は図太く鮮明に生き続けているのだ。これは一体どういうことなのだろう?ずっと気になっていたのだが、織田裕二の存在を通じて腑におちた。A君も織田裕二と同様に、私にとって生命力の源である「太陽」のエネルギーを加速させるところの’自己主張力’や’戦闘力’を持ついわば「火星」的な存在であるということを。
ドラマ『十九歳』の織田裕二は、私個人の思春期の内的体験を通じて獲得した「内なる男性=インナー青年」の具現化として、当時好きだったA君のイメージと重ね合わせ、生涯にわたって私の魂に刻印されたのだ。
これまで長年、深層心理でずっと恋焦がれていたドラマ『十九歳』。今の個人によるメディア発信が普通の時代になり、こうして動画サイトで再会することができて感無量だ。見つけたのが今のところ全3話中、第1話と第3話のみ。この間の第2話が見たい。またNHKアーカイブスなどで特集してくれないだろうか。あらためて全話を通して見たいと切望するところである。
追記。
織田裕二の代表作である、かの有名な『踊る大捜査線』(1997年〜フジテレビ放映)のBGMで、私が一番好きなナンバーがこちら’Moon Light’。織田裕二演じる主人公の青島刑事が、ピンチに襲われてどうしようもなくなって、本気出す時に必ずといっていいほど流れていた曲だ。胸がキューっと締め付けられるような切なさ。寒くて心細く、煌々とした冷たい月の光に照らされながらも、心の中にはちいさな炎がほのかに灯り、静溢な中にも身震いするような勇気がかすかに湧いてくる。自分の信念を曲げずに生きようって思える。そんな曲だ。
あらためて…深く深くハートと私の女性性のコアな部分みたいな領域の奥まで、揺さぶる素晴らしい文章に感動しました!これだけ衝撃の出会いと、それを見事に掴み、自らに溶け合わせ、内なる結びで爆発させ、そこから自身の男性性の逞しい活力に具現化されてきたストーリー…青春の甘く切ないノスタルジーに留まらない、男女、陰陽の邂逅とはこういう事を言うのかもしれない。眩しいくらい、惚れ惚れします!
早速のご感想、とても嬉しいです!!
意識の上ではずっと封印してきた想いでした。星の考察と合わせて見直すと、あらためて自分の核をなす貴重な経験だったなと実感しています。
男女、陰陽の邂逅、本質はこういうことかもしれないですね。なるほどです!
ありがとうございます・:*+.\(( °ω° ))/.:+