こんにちは。当ブログ『路地裏のはにうら』運営者はにうらです。
当ブログに興味を持っていただきありがとうございます。
私は学生時代に東南アジア留学後に東京で6年のフリーター期間を経て、40歳目前に理学療法士となりました。
現在は出身地の岡山県に暮らし、主婦で育児をしながらリハビリの仕事をしています。
この記事では、そんな私のプロフィールについて詳しく書いています。
目次は以下の通り:
1 生い立ち
1-1 内向的だった子ども時代
1-2 絵描きへの憧れ
1-3 近視とのつきあい
1-4 外国への憧れ
1-5 ついに海外に飛び出す
1-6 上京しモラトリアム生活に溺れる
1-7 挫折と方向転換〜地元で学生やり直し
1-8 人生初のの正社員→晩婚出産→退職→現在
2 ブログタイトル『路地裏のはにうら』に込めた想い
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長いので、数回に分けています。その1では、1-1から1-3までとなっています。
内向的だった子ども時代
1972年、岡山県生まれ。
物心つく頃より内気で、競争ごとが苦手な運動オンチ。鬼ごっこやドッジボールは苦痛以外の何物でもなく、体育の授業や運動会が憂鬱で仕方がなかった。クラス係をジャンケンで決めるとき周囲の勢いに圧倒されグーばかり出して負けていた。
「引っ込み思案→成果が出ず萎縮する→負け癖がつく→更に引っ込み思案」というネガティブスパイラルに見事にはまっていた。今でいう学級カーストでほぼ最下位ポジション。校庭のど真ん中でワイワイ遊んだ記憶が殆どない。
休み時間は校庭の隅で草花や虫、石ころの観察をしたり、教室で独り読書や絵を描いたり。ひっそりしたクセのある子どもだった。ただ、自宅が町外れにあったので通学距離があり(片道が小学校3km、中学6km、高校9km)登下校するだけで全身体力はそこそこ鍛えられた。
いまだに何事もスタートダッシュがめちゃくちゃ重くて遅い、という行動パターンは子ども時代に形作られたのかもしれない。
絵描きへの憧れ
絵を描くのは昔から得意だった。でも習い事や専門的な学校などに通った経験は無く、もっぱら見よう見まねと独学でやってきた。気づけば他人の似顔絵を描くのがライフワークになっていた。
原点は、保育園の頃クラスの子が描いた絵が抜群に上手いのに衝撃を受けたこと。この時、絵を描く楽しさに目覚めた。小学校では図画工作が大の得意で、クラスメートと同じ足並みでは物足りず独りどんどん先に進み、絵のコンクールではよく賞をもらい、昼休みには人気のない教室や非常階段で自作マンガを描くのが何よりの楽しみだった。
中学では授業中ノートの隅に教師の顔や口癖のセリフを落書きしたり、教師のモノマネを友人間で披露したりと、おそらくこの頃から「その人ならではの特徴」を表現し始めていたように思う。高1の頃、学級新聞にセリフや仕草・背景付きで教師の似顔絵イラストを載せると、校内で話題になった。やがて家族の似顔絵も描くようになり、高3から家族の似顔絵入りの年賀状を毎年シリーズで10年ほど描き続けた。
このように、幼い頃から将来の夢は絵描きになることで、高校卒業後の進路先には美大を一時期考えたものの、親に反対され自分自身も進路を美術に賭けることが怖く、結局美大への進学は断念。
その後絵描きにはならず、美術とは無関係の分野で働いていたが、単発の仕事として友人に頼まれて似顔絵を描いたり、本の挿絵イラストを描くことがあった。職場など自分がその時々に出会った人たちの似顔絵を描いてプレゼントすることもあった。こうして今まで描いてきた似顔絵は、のべ200名を超えている。
近視とのつきあい
元々1.2程度あった視力が、小学生より低下し始め6年で0.1にまで低下。メガネを作ってもらったのに掛けるのが嫌で無理やり裸眼で通した。黒板の字や習い事のピアノ楽譜が見えづらく、他人に悟られまいと平気な素振りをしていた。
中学生になると視力は0.1を切り、授業中だけメガネを掛けるようになったものの、普段は裸眼。なので見えない部分は想像(や妄想)に頼るしかなく、物事を遠近バランスよく認識し他者とコミュニケーションをとる、というスキルが相当欠落していたと思われる。中3の頃、このままいくと自分はやがて失明するのではないかと本気で怯えていた。
その後、高校時代にコンタクトレンズデビューを果たし、見るもの全てがくっきり鮮明となった瞬間、世界がガラリと変わり失明への恐怖が消え去った。このときの解放感はいまだに鮮明に覚えている。
ちなみに成人後に家庭を持って以来、ケアが面倒なため完全なメガネ生活になっている。
(続く)
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