はにうらの自己紹介 その3

はにうらのプロフィール 続きです。

目次:
1   生い立ち
1-1  内向的だった子ども時代
1-2  絵描きへの憧れ
1-3  近視とのつきあい
1-4  外国への憧れ
1-5  ついに海外に飛び出す
1-6  上京しモラトリアム生活に溺れる
1-7   挫折と方向転換〜地元で学生やり直し
1-8  人生初の正社員→晩婚出産→退職→現在
2 ブログタイトル『路地裏のはにうら』に込めた想い
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その3では、1-6と1-7です。

上京しモラトリアム生活に溺れる

就活では、通訳翻訳でインドネシア語を生かせる仕事に就きたいと思い、インドネシアと関わりのある企業をあたったものの、ことごとく不合格。
当時バブルがはじけた後で就職氷河期に突入しており、地方の文系大学院卒の女性が正社員でインドネシア語というニッチな分野を生かそうとするには、なかなか厳しい道のりだった。

結局正社員になることを諦め、とにかくインドネシアに近い仕事内容を、と広島市内のアジア輸入雑貨店でしばらくアルバイトをしていた。

しかし数ヶ月後、友人のつてで東京都内にあるインドネシア語関連の企業に内定。
やっと正社員でインドネシア語を使った仕事ができる!
嬉々として東京にアパートを借りた矢先に、まさかの内定取り消し
岡山の実家に戻るという道もあったが、気持ちは既に上京する気満々だったため、後先考えずその場の勢いで引っ越し決行。

26歳の秋だった。

世田谷区の家賃6万5千円のアパートに暮らしながら、時給1000円満たないアルバイトと、不定期に入ってくる語学関連の仕事を掛け持ちするという、どう考えても冷や汗モノの綱渡り生活が開始。

このさい出来ることはやってしまえとばかりに、興味のあることは片っ端からトライした。

東京でトライしたこと

ーインドネシア語の通訳、翻訳
ーアジア輸入衣料品店で販売、衣服繕い直し、海外買い付け同行
ーイラストの仕事(語学本の挿絵、似顔絵)
ー大学研究プロジェクトチームでの事務補佐アルバイト
ーバリ式アロママッサージ施術の仕事
ー手作り石けんをレンタルスペースで販売
ーハンドメイド作品コンペへの出品(一次審査で落選)
ーパッチワーク作品コンクール出品(落選)

挫折と方向転換。地元で学生やり直し

上京後数年間は、上記のことに手を出して都会生活を満喫。
しかし、アルバイトと単発で不定期な語学の仕事では収入が安定せず、家賃の高い都会ではカツカツの生活で、常にお金の面で不安が絶えなかった。

当初目指していたインドネシア語のプロになることに向けて本腰を据えることもできず、かといってどこかの企業に就職して正社員になる道を目指すわけでもなく、アルバイトの地位に甘んじて先の見通しが中途半端なまま徐々に心身が疲弊し行き詰まり、家族と相談し33歳の秋に岡山の実家に戻ることに。

東京で一旗あげてやる!という当初の野心はもろくも打ち砕かれ、7年にわたる東京生活にピリオドをうった。

岡山に戻ってからは、経済的に自立するため何か手に職をつけようと思い、マッサージが得意なことをきっかけに医療系の理学療法士の免許をとることに。

実家、親元で暮らすのは高校卒業以来14年ぶり。
30過ぎて自立できていない自分、再び専門学校(しかもインドネシア語とは無関係!)に入り直して学生になる。
おまけに東京ビンボー暮らしでまともな貯金があるはずもなく学費は親頼み。

医療系によくありがちだが、学校のカリキュラムは厳しく、過密スケジュールで吐きそうになることしばしば。
実技科目や病院実習では心身追い詰められ苦しかった。
自分より15歳も年下の学生と同じ席に並び、いろんな意味でジェネレーションギャップが激しかった。

これまで自分一人の力で生きて行くと息巻いてきたのは一体なんだったのか。

自分の無鉄砲なアホさ加減と無力さ・プライドは高いくせに臆病。

自分の全てに苛立ちと嫌悪感&焦燥感maxの暗黒時期だったといえる。

途中で何度か挫けそうになりながらも辛うじて踏みとどまり、1年留年して専門学校を卒業。
38歳にして理学療法士の国家資格を取得した。

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