はにうらのプロフィール 続きです。
目次:
1 生い立ち
1-1 内向的だった子ども時代
1-2 絵描きへの憧れ
1-3 近視とのつきあい
1-4 外国への憧れ
1-5 ついに海外に飛び出す
1-6 上京しモラトリアム生活に溺れる
1-7 挫折と方向転換〜地元で学生やり直し
1-8 人生初のの正社員→晩婚出産→退職→現在
2 ブログタイトル『路地裏のはにうら』に込めた想い
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長いので、数回に分けています。その2では、1-4と1-5となっています。
外国への憧れ
同居していた父方の祖父母は旅行好きだった。ハワイや当時のソ連、中国、タイなど海外にも行っており、自宅には珍しい外国の調度品や写真が飾ってあった。物心ついた頃から外国文字に興味を持ち、台所に並んだ洋酒瓶に記されたローマ字をひたすら見つめていた記憶がある。
中学校では、英語は得意で、ラジオの英語講座を毎日聴いていた。部活動に入るのが億劫で帰宅部を通すつもりが、英語教師だった担任が自分の顧問の英語部に入るよう強引に勧めてきて渋々入部。部員は地味キャラばかりで、土曜の午後に薄暗い視聴覚教室でひたすら英語のクロスワードを作っていた。
高校卒業後の進路は、世界史で学んだ欧米以外のアジア地域に興味を持ち、これを専門にしようと決意。親元から離れて独り暮らしをしたい一心で受験勉強に打ち込み、広島大学文学部東洋史学に進んだ。
「英語以外のマイナーな外国語をマスターしたい」という漠然とした欲求があり、大学では第二外国語にロシア語を選択し、卒論執筆のためオランダ語を学んだ。
当時ブームにもなっていたエスニック系の服やアクセサリーを身に付けることが多かった。
ついに海外に飛び出す
大学進学後、広島で念願の独り暮らしを始めたが、いざ自由を手にすると何をしていいかわからず右往左往の日々。勉強は殆どせずサークル活動も続かず、アルバイトを少しする程度。大学時代の大部分の時間を昼寝と自炊に費やした。専門課程では、3回生から入ったゼミの教授に影響されインドネシアに興味を持つように。文献ありきの歴史学の伝統的なスタイルに違和感を覚え、机上の理論ではなく自ら直接体験したいという好奇心と欲求が出てきた。
4回生になる直前にインドネシアを旅行し、初の海外体験でカルチャーショックは半端なく「この国に暮らしてネイティブ並みに言葉をマスターしたい」というインドネシアへの激しい情熱がほとばしり始めた。学部卒業後の進路は、どこかに就職するというイメージが全く湧かず、ずるずるとそのまま同じ専攻で大学院に進学。これは正直なところ、究めたいテーマがありその道の研究者になるといった明確な目的を持ったものでは無かった。むしろ経済的に自立した大人になることへの怖れが強く、モラトリアム期間を引き延ばして生のインドネシアにはまりたい、というある種退行的な欲求からくるものだった。
こうして大学院生になって間もなく、広島で開催されたアジア競技大会をきっかけに、インドネシア人と繋がりができた。翌年23歳から1年半、インドネシアの西ジャワ州バンドゥン市に滞在しインドネシア語を学ぶ。この滞在経験によって語学面は日常会話レベルはほぼマスターし、南国独特の風土に触れることで生まれ育った日本とは何か違う感覚が身についたかも知れない。
帰国後、何とかギリギリ大学院の卒業には漕ぎつけたものの、修士論文を執筆するのに四苦八苦。そのせいかいまだに時々修士論文が書けずに焦る夢を見ることがあり、自分が大学院卒であることに対して強いコンプレックスを抱えている。
(続く)
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