これまでの片付けに対する固定観念
「モノを減らすことで日常生活が快適になり人生が豊かになる」「身辺を整理し必要最低限のものだけ残せばスムーズに事が進む」という「片付けは物事の大前提」というセオリーは今まで耳にタコができるほど聞かされてきた。確かに散らかった状態、モノや情報が増えすぎてのべつまなく散乱している状態は精神的にも肉体的にも負担が大きくストレスの元になる。
実際のところ、現代社会は多様な商品が大量に出回りそれらを消費し続けることで成り立っている。モノや情報が溢れかえった混沌の世を生き抜くには、まずは自分自身の生活空間を片付けて整理し、これを定着化、習慣化させることが欠かせない。…ということを私も頭ではわかっていた。そしてごくたまに衝動的に片っ端から片付けに没頭していたが、どうしても苦手意識が抜けなかった。
というのが、片付けた後の整った状態がキープされるのはほんの束の間で、やがてまた必ず前と同じように散らかってしまうからだ。いわゆる片付けリバウンド。毎回この流れに行き着くことに辟易していた。私はかなり完璧主義なところがあり「やるなら完全に自分が納得するレベルまで片付けないと気が済まない」→「でも、どれだけ完璧に片付けたところでまた必ず散らかる」→「片付けても片付けても終わらない」という負のスパイラルにはまり込んでいた。実際に片付けないまま放置し、結果「見た目が乱雑になる・必要な時に必要なものがすぐに見つからない・作業するスペースがない」ことでイライラが募り、この現状を直視することが億劫で片付けから逃げていて、しかもこの問題はやはり片付けることによってしか解決することができない厳然たる事実が立ちはだかっており、慢性的なジレンマと自己嫌悪に陥っていた。
なので、ここ十数年来巷でブームとなり、随時話題になる「断捨離」「〇〇式片付け術」「捨てる技術」「ミニマリズム」といったいわゆる片付けメソッドの数々に対しても「所詮ストイックな痩せ我慢を強いられる苦行なのでは?」とどこか斜に構えていたのだ。
片付けの概念が一変し訪れた変化とは
しかし、先月(2022年9月)下旬に天才研究家やまけんさんのオンラインの読書会に何気なく参加したことをきっかけに、私の目から大きな鱗が剥がれ落ちた。この読書会で『超ミニマル主義』という本に出会ったのだ。著者は四角大輔(よすみ だいすけ)さん。四角さんは、元音楽業界で業績を上げた後に海外移住しノマドワーカー&ミニマリズム実践者のさきがけとなり、アウトドアライフに通じた方だ。
最初この本のタイトルを目にした時「ああ、ミニマリズムか。確かに実践できたらいいけど、果たしてこれって本当に持続し習慣化できるものなの?」と正直半信半疑だった。だがこの本を元に、読書会の中のワークで実際に「手持ちの財布」の中身を整理したことを皮切りに、読書会の後も「バッグの中身、デジタル情報、車の中、職場のロッカー、自宅作業デスク周り」の片付けが途切れることなく続いた。普段片付けに対して腰の重い私が驚くほどスムーズに体を動かして取り組み始めたのだ。しかも嫌々ではなく内から湧き上がるモチベーションに突き動かされて。
この本を読了し4〜5日経った頃、整理・片付けが進むにつれて頭の中も徐々にクリアになってきた。仕事や家事をする際に何をどの順番でどうすればより効率よく進められるかをゲーム感覚で工夫したり、今までは正直いってほぼ義務的に近い感覚で辛うじてこなしていた毎度の食事の支度を、ふと家族の喜ぶ姿を見たいと思い立ち新しいレシピに挑戦してみたりと、日常生活のひとつひとつの行為を純粋に楽しむ余裕が出てきて、暮らしそのものがクリエイティブになり始めたことを体感している。
さらに1カ月が経つ現在、子ども部屋、リビングスペース、脱衣所と洗面所、キッチンの冷蔵庫も片付けた。それにより身の回りの空間がどんどん整い、見た目の美しさのみならず作業工程の効率化、最適化が進み、身も心もより軽くなり充実感がアップしている。そして自分自身が苦痛を伴わずに片付けを習慣化するサイクルが出来つつあり、かつ今のところリバウンドすることなく片付け直後の整った状態が保たれている。
以前は、片付けや整理整頓は「綺麗に片付けること」そのものが目的だと漠然と捉えていて、散らかった部屋や片付いていないモノを見るたびうんざりして、処理することを避ける自分に嫌気がさしていた。でも、この本に出会ってからは「おおー、いい具合に散らかってるね?この中に一体どれくらい宝物が埋もれてるのだろう。まあ待ってなさい、順ぐりに整理していってあげるから」という攻めの気分にすらなっている。片付けに対するスタンスに加えてこの「散らかった現場を目にした時の心の反応」もがらっと一変した。
私の日常生活で「片付ける→軽くなり快適→空間も心も余裕が生まれる→自分の軸がクリアになる→クリエイティブになれて楽しい→片付ける」というサイクルが定着しつつある。片付けとは、単に見た目を綺麗にすることではなく、今や「自分が今ここに全集中して生きる」ための環境作りである、という位置付けに転換したのだ。
「片付ける」ことから見えてくるミニマリズムの極意
上述したように、私は最初「ミニマリズム」と聞いた時、まるで修行僧のように皆一律に頭を丸めて画一的な基準でモノを断捨離するという禁欲的なイメージがあり、身の回りのモノを有無を言わずとにかく切り捨てて減らすことを最優先し、痩せ我慢することを避けて通れない一種の「苦行」と捉えていた。しかしその認識は完全に誤りだった。「ミニマリズム」とは本来個人的・主観的なものであり、人それぞれが自分自身の判断基準で、自身で決めた優先順位に沿ってモノを選り分け不要なものは削ぎ落とし必要なものは残すことなのだ。なので、同一のあるモノがAさんにとってはガラクタ同然であっても、Bさんにとってはかけがえのない宝である場合もあり得る。すなわち「自分自身が心の底から喜びや幸せを味わう生き方をするため」の手段そのものが「ミニマリズム」なのだ。ミニマリズムの真髄が、実は個のあり方に立脚していたことに、深く心動かされた。
心の奥の本音、生きる意欲を浮かび上がらせるミニマリズム
私は自分自身の目指す生き方・価値観すなわち「自分軸」に関しては既にある程度定まってはいたが、日常生活で押し寄せてくる膨大なモノや情報の「重量」のボリュームの大きさに圧倒され、この最も大切にすべき「自分軸」がグッタリ疲弊していたことが判明した。疲弊した自分軸のままで、自らの価値基準がどこにあるかがぼやけてしまい不要なモノと必要なモノがごっちゃに混在した状態のまま我慢して生き続けるしかなく、そちらのほうがよほど苦行だったことに気付いた。ここで、思い切って意識的に奮起して頭と手を動かして、まずは突っ散らかっている実際のモノや情報が何なのかを可視化し把握した。そして「自分の判断基準に照らし合わせて整理する」ことで不要なモノを削ぎ落とし「軽く」していくことで、みるみるストレスが減って心身ともに楽になっていくのを実感した。そして何気ない瞬間に様々なアイデアが思い浮かぶことが多くなっている。本来自分のやりたいことや、今まで抑えていた思いや考えなどが表面に出てきやすい状態が作れてきている気がする。直感力が冴えてきている感覚だ。ひょっとしてこれこそが「自己受容感」「自己肯定感」の表れなのかもしれない。
世を生き抜く原動力を養うミニマリズム
このように、不要なモノや情報を削ぎ落とし優先順位をつけることは「自分にとって本当に必要なものは何かを精査する」という生き方に通じている。昨今、世界でマスメディアなどを通じて政治危機や食糧危機が叫ばれたり、巷では物価が上昇し社会不安も強まってきている印象だが、これもシンプルに自分自身が個として必要な生き方を貫いていれば、そういった現象に対しても自分なりの視点でフォーカスし、自分はどうあるか、なにをすべきかをシンプルに洗い出し実践するサバイバル能力も磨かれるのではないだろうか。外部に溢れかえる情報に振り回されたり必要以上に不安に苛まれたりする部分すら「ミニマル化」される余地があるのではないかと直観している。
目指せ自宅のカフェアトリエ化!
引き続き、片付け整理を進めていこう。残るはキッチン周りのツールや食料品関係。寝室スペース、玄関周り。私自身の部屋(もともと乱雑だった上に、リビング整理で大量に出てきた捨てるに捨てられないモノたちが集積している)。ざっと見回してこんな感じだ。
目指すは、自宅の共有スペースのスッキリ最適化&私の個人スペース完全カフェアトリエ化だ。
追記
「掃除」のモチベーションについて気づいたこと
「掃除」とはここでは「その場の埃や汚れの除去」と定義する。掃除をするのが面倒くさい、と感じてしまう理由について考えた。
必要なモノと不要なモノが混ぜこぜに放置されている場を、ただやみくもに掃除機をかけたりハタキをかけたり水拭きするだけでは、掃除する理由への納得感が不十分なまま無駄なエネルギーを消耗し、すぐまた散らかって埃だらけゴミだらけになる。これがもし身の回りのモノが本当に自分にとって必須であったり自分の気分を上げるもののみ選び抜かれていれば、その場に対する愛着が湧き、自然とその場のホコリも除去したくなるであろう。掃除するのが億劫になるのは、おそらくそもそも「その場にあるモノを選りすぐって整理できておらず、その場への思い入れや愛着が希薄」であることに起因するのではないだろうか。
ミニマリズムは「最上志向」の世界を体現していた
著者によると、このミニマリズムの精神「取捨選択による整理、片付け、軽量化」とは、日本古来の禅の文化に通じるとのことだが、同時にストレングスファインダーで出てくる資質の一つ「最上志向」のポリシーそのものでもあると思った。「最上志向」とは、人やモノに宿る良いところや美点を見つけてさらに磨き上げ、クオリティーを最大化させることに長けた資質だ。「神は細部に宿る」がひとつのポリシー。さらにいえば’自分自身にとって’必要なもの、価値あるものを見極め、それをさらに高めて、反対に不要なものはどんどん削ぎ落としていく、という主観的な取捨選択&研鑽の資質なのだ。私はこの最上志向が全34位中1位。実は私って本来ミニマリズムの思想ときわめて相性がよく、片付けに向いているタイプだったのか!とこれまた目から鱗だった。
片付けをしていく中で、著者の「1gの余分を侮るな」というセリフが頭をよぎる。そう、たとえ1g単位のほんの僅かな量であっても不要な部分を削ぎ落とすことができたら、空間も思考もその分確実に「軽く」「楽に」なるのだ。おそらく著者も最上志向がかなり上位にある方なのではないか、と推測している。
(ちなみに、最上志向を英語に訳すと”Maximizer”=最大限に活用する人、となる。一方、ミニマリズムは最小化”Minimalism”であり、原語のMaxとMinimalで語彙の上では対極的だ。根底の軸は通じ合っている気がするのだが、どうなのだろう)
あなたへお勧めしたいこと
なお、当記事をここまで読んでくださったあなたが、もし片付けに対し苦手意識がありミニマリズムに少しでも関心を持たれたら、まずはお試しに、身近な使用頻度の高い「財布やバッグ」「スマホ画面」から整理してみることを是非おすすめする。これは『超ミニマル主義』の目次に沿ったやり方なのだが、片付けに対する初動の「億劫で手をつけにくいハードル」がとても低く設定されており、気軽にトライすることができると思う。もしここで片付けや整理することの快感や達成感を得られたら、着実に次のステップに進むことが可能だ。楽しみながら無理のない範囲でトライしてみてほしい。
参考文献
四角大輔『超ミニマル主義』ダイヤモンド社、2022年
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